2016年9月24日土曜日

目が死んでる

人によく「目が死んでる」と言われる。

自分自身では笑ってるつもりなのに、
「目が笑ってない」と言われる。

写真や動画で見ると客観的にわかるが、普段自覚していないのでいつ目が死んでいるのか、あまりピンとこなった。


この前、目が死んでる人に会った。

あ、目が死んでるってこういうことかと分かった。その人に心から感謝した。

教えてくれてありがとう!
身を持って伝えてくれて、
ありがとう!

・・・きおつけようっと。笑

2016年9月23日金曜日

チャンスのアンテナ

「チャンスのアンテナ」の話をしたい。

今みなさんが息を吸っているこの一瞬一瞬は、
ものすごい数の偶然が重なって出来ている。


よく私の上手くいったときの経験談を話すと、
「あなたはやっぱり運がいいね。私にはそんなことが起きない」とか言われる。
私は、チャンスは常にみんなの目の前に降りそそいでいると思う。
重要なことは、「それ」に気付くかどうか。
気付いて、行動して、それを掴み取れるかどうかだと思う。

今までたくさんの失敗をしてきた。
でも、そのおかげで「目の前の選択肢を見極める能力」や、
「リスクを判定する能力」が少しつづ付いてくる。
誤った選択肢をしたとき深く後悔し、自分を責める。

私の場合、大学に7年間通って退学になったときは、
本当に自暴自棄になった。

今までの自分の選択肢をどんどん遡っていき、
結局出口の見えない迷宮に入り込んでいった。
そこに答えはないのに、自分を責めている間は、
自分が存在しているような感覚になるから、
かろうじて精神を保てるといった具合の悪循環だった。


昼間は地面ばかり、夜は天井ばかりを見て過ごした。
まるで自分だけが、地球の回転にも社会の流れにもついていけない、
橋の下に引っかかった腐った大木のような気分だった。


極限まで落ち込んで自問自答を繰り返した。
作っては壊し作っては壊す、子供が遊ぶ紙粘土みたいに。

そして、ある日、考えることを全部やめた。
自分を責めることも、毎日がんばることも、
希望をみつけることも、夢をみることも、
落ち込むことも、誰かのせいにすることも、
ぜんぶやめた。


ただただ、生きた。
アルバイトにいき、帰ってご飯食べて、寝る。

しばらくたつと、
何もない心の土壌にぴょこっと芽が出た。


その芽はこう語りかけた。
「『これでよかったんだ』と思うところから、始めよう。」



大前提が、自分の考え方が変わった瞬間だった。


今まで生きてきた自分の人生を肯定してみた。
それだけ。


そうしたら、すべての黒が、白にひっくり返っていった。
黒だと思っていたものが白だった、といってもいい。


今までやっていたことは何一つ無駄じゃなかった。
点と点で分散した事象がこれからの人生で線になっていく。
そう思うようになってから、自分の目の前に起きるすべてが、
これから線を描くための予兆に見えてきた。
それはチャンスを敏感に感じ取れるようになってきたとも言える。

人の話をちゃんと聞いてヒントを探すのだ。
RPGをやったことある人はピンとくるでしょう。

だから人を大切に思い、人の話を聞いて、
日頃からチャンスのアンテナを張っておけば、
必ず捕まえられる。

はじめは失敗するかもしれないけど、
恐れないで飛び込んでみて。

大丈夫、
「死ぬこと以外はかすり傷」だから。

失敗こそがかけがえのない財産であり、
いくらお金を積んでも手に入れられない宝物。

さぁ、そこらじゅうにばらまかれている、
「チャンス(選択肢)」を掴んでみよう。


2016年9月19日月曜日

これまでのあらすじ

ここで2016年の松野ムネタカの時系列を整理しようと思う。


4月  ココストア閉店。バイト辞める。
5月  大家さんのリフォームを手伝う。
6月  瀬底島でお別れパーティ。
7月  台湾1ヶ月半行く。
8月  宮古島に行く。大分に一時帰省。
9月  沖縄に戻る。


4月にバイト辞めてから、沖縄でのアルバイト生活に区切りをつけた私は、沖縄生活10年目の節目に思い切って地元である大分に帰ろうと決心した。

地元に戻り母と暮らしながら再スタートしよう、などと考えていた。荷物も生活するための必要最低限のものを除き、全て実家に送った。

大家さんにリフォームのお手伝いを頼まれていたので、それが終わり次第大分に帰る予定だった。

リフォームは約2ヶ月にも及んだ。屋根の防水、壁板の張り替え、ペンキの塗り替え、キッチン新設、ドアを作る、などなど、技術者の指導のもと、ありとあらゆる工作を行った。

リフォームも終わりに近づいたので、沖縄でお世話になった皆さんに連絡し、挨拶をしていた。

そんな矢先、サックスの千葉さんが「最後に松野のお別れパーティをしよう」と言ってくれた。

以前、瀬底島でライブパーティをしたことがあり、千葉さんは瀬底島の皆さんにも声をかけてくれた。こうして開かれた瀬底島でのパーティ、島民の方や、私のことを知らない人もたくさん来てくれた。

パーティも終わる頃、来てくれた人にお礼の挨拶をしていると、1人の大学教授と出会った。その方は、私が住む宜野湾市で日本語学校を経営していると教えてくれた。

その学校は、私が住む家からバイクで10分ほどの場所だった。「一度来なさい」と初対面の私を誘ってくれたので、数日後、リフォームの休日に学校に訪問してみた。そこで2週間ほど書類整理の業務を手伝った。

ある日教授に、「台湾へ1ヶ月半行く?」と言われた。海外に行ってみたいとかねがね思っていたので、すぐに行くことが決まった。

7月6日から8月20日までの約1ヶ月半、台湾の幼稚園で日本語を教えた。卒園式を終えた翌日の8月21日に那覇に帰国した。

さらに翌日22日の朝、宮古島に飛び、台湾の高校生と26日までリーダー研修に参加。

26日の午前中沖縄に戻り、3日ほど滞在した後、29日の飛行機で大分の実家に帰省。母は私がやっと10年ぶりに大分に住みはじめると思い涙を流したが、再び沖縄に戻ることを決意したと伝えるとがっくり肩を落としていた。10日ほど滞在し、その間、家を掃除したり、母と美味しいものを食べに行ったりした。


あだちんにもあって、色々話した。

9月8日、博多駅でわたゆうとも会うことができた。


沖縄に戻ると、倉庫を改造して住めるようにした。大家さんと店長とゆうじと伊波さんが手伝ってくれた。2日間のリフォームを終えると、倉庫は見違えるほど住みやすい部屋に変わった。



こうして、私の第二の沖縄での生活が始まった。


なにから話そっか

「MADMAX FURY ROAD」
何故かもっかい無性に観たくなって借りた。
今日の午前中朝ごはん食べながらみた。

派手なアクションを見て、スカッとしたかったのか、なぜもう一度観たいのか、自分自身でもわからないまま眺めていた。

映画館で観る迫力には劣るが、作り込まれたアクションは画面が小さくても迫力満点だ。


何故いま私がこの作品を欲していたのかが、途中でわかった。

このストーリーといまの自分の状況が重なっているからだ。

奴隷のような生活から命懸けで逃げ出し「緑の大地」に着いたはずだったが、そこにかつての故郷はなかった。考えた挙句彼女たちは、誰もその先に何があるのかわからない「塩の湖」を進むことを決意する。しかし主人公マックスは彼女たちの前にはばかり、地図を見せ、逃げてきた砦を指差してこう言う。「行き先はここだ。緑も水もある。この先はいくら行っても塩しかない。」命懸けで逃げて来た砦に戻る提案に最初は一同戸惑うものの、最後は応じる。そして「来た道を戻る」という誰も想像し得なかった展開へと進むのだ。

私は再び沖縄に戻ってきた。
18歳のときに大学進学で来沖し10年暮らした。節目だと思い、一度は故郷の大分県に帰ることを決意したが、再び沖縄に戻ることを決意した。

この状況が「FURY ROAD」のストーリーと重なった。

だから私は無意識に、
この映画を欲したのだろう。

一般的にヒューマンドラマやラブストーリーに共感することが多いけど、アクション映画のストーリーでも共感できるんだね!

しかし、何度観ても最高の映画。
マックス本当にほとんどしゃべんないんだから!!渋いねっ!!

やっぱり金切りノコで猿ぐつわを外そうとギコギコやってるシーンがすごく好き。

かわいい。